50th Anniversary of MFJ
トップページ50周年に寄せて50年の歩み世界への挑戦未来へ向けて
世界への挑戦

世界へ挑んだライダーたち



伊藤光夫

センターポールに日の丸を掲げた最初の日本人

 

 日本のモーターサイクルスポーツ黎明期から活躍した伊藤光夫は、1937年に静岡県磐田市に生まれた。静岡は今も昔もモーターサイクルのメッカといえる土地で、当時も浜松には多くのオートバイメーカーがあったという。伊藤自身も、家業が自動車関連業だったこともあり、幼少からオートバイや車に親しむ環境で育ち、自然とレースの世界へと踏み出していった。
スズキ自工に入社した伊藤のレースデビューは1959年の第2回浅間火山レース。1960年からはマン島T.T.への挑戦を始める。様々な苦労を重ねながら経験も積み重ねると、3年目となる1963年のマン島T.T.レース50ccクラスで優勝。この優勝は、日本人初の快挙となった。
その後も国内外のレースで活躍。現役引退後はMFJの技術委員長などを歴任し、モーターサイクルスポーツの普及発展に尽力している。

片山敬済

モトクロス界唯一の世界チャンピオン

 

 1951年に兵庫に生まれた片山敬済は、1971年にロードレースにデビュー。'72年には全日本選手権ジュニア250ccクラスで早くもチャンピオンに輝き、'74年には日本を飛び出し、世界GPへと参戦を始めた。
当初、250ccクラスに参戦していたが、その後350ccクラスへと転向。1977年にはついに日本人初となる世界チャンピオンに輝いた。
その後は世界GPへと復帰したホンダに入り、4ストロークNR500で当時の最高峰クラスGP500へ参戦。2ストロークのNS500へ乗り換えた1982年には日本人初の最高峰クラス優勝も記録している。
1985年のシーズン途中に現役引退してからは、自らのレーシングチームも結成。若手ライダーの海外進出をサポートした。

渡辺明

初代全日本チャンピオン!SSDTにも出場、世界へ挑む

 

 モトクロス、ロードレースが隆盛を見せた後、新たなモーターサイクルスポーツとして熱い注目を集めたのがトライアルだった。
  全日本トライア選手権は1973年にスタート。この年は1大会のみの開催でチャンピオンを決している。この大会に優勝したのが、当時まだ高校生だった木村治男だった。当時、まだ無名だった木村の快挙に、トライアル界は沸き返った。
  その後、全日本はもちろん海外にも目を向けた木村はSSDTなどにも積極的に参加。世界のレベルをその肌で実感し、それを日本へと持ち帰ると日本トライアルの黎明期を支える活躍を見せる。
  引退後もトライアルとの関わりは続き、現在もトライアルマシンの開発等に活躍している。

高橋国光

センターポールに日の丸を掲げた最初の日本人

 

 1961年西ドイツGP。高橋国光は、日本人として初めて、世界選手権に優勝。センターポールに日の丸を掲げた。
 高橋国光は日本のレース黎明期から活躍したライダーで、レースデビューは1958年の浅間火山レース。いきなり優勝し頭角を現すと、翌年にはクラスをあげて優勝。その活躍が認められホンダに入社、海外レース派遣選手となって世界選手権参戦をスタートさせる。
 世界参戦初年度の1960年から大活躍を演じると、翌年にはGP初優勝。しかし、その後転倒による負傷もあり、2輪から4輪レースへと転向。ここでも、日本のトップドライバーとして輝かしい実績を残した。

渡辺明

モトクロス界唯一の世界チャンピオン

 数々の選手が世界へ挑戦し続けているモトクロス。その歴史の中で、日本人としてただ一人、その頂点を極めたのが渡辺明だ。
 河原でモトクロスの練習に励み、レースデビュー。その渡辺を世界へ送り出しのは、当時あったMFJの優秀選手海外派遣制度だった。交際レースで繰り広げられていた高度なテクニックの応酬を目の当たりとし、どん欲に吸収すると、1978年にはついにモトクロス世界選手権125ccクラスでチャンピオンを獲得する。
 現在に至るまで、日本で結果を残した多くのトップライダーが海を渡り海外のモトクロスに挑戦を続けてるが、いまだ頂点には手が届かない。それほど、モトクロスにおける世界の壁は厚く高い。その壁を突き破った渡辺の存在は、いまでも光り輝いている。

平忠彦

20世紀最大のヒーロー

 

 日本のレース界から生まれた最大のヒーローといえば、平忠彦選手だろう。80年代半ばから90年代にかけて、その存在はことロードレース界のみにとどまらず、一般社会へも浸透。一大レースブームの立役者ともなった。 
 1980年に全日本ロードレース選手権350ccクラスチャンピオンとなった平選手は、1983年から1985年まで当時の最高峰クラスGP500を3連覇する偉業を達成。85年の世界グランプリスポット参戦を経て、1986年から本格的にGP参戦を開始する。
 1986年、世界選手権GP250クラスに参戦した平選手だったが、開幕戦のスタートで後続に追突され負傷。その怪我を抱えたまま、レースを戦わなければならず、苦しいシーズンとなる。それでも、怪我が癒えるとともに鋭さを取り戻す走りで、最終戦では見事に優勝を飾った。
 翌年からは最高峰のGP500クラスにフル参戦し世界の強豪と互角の戦いを見せ活躍。
また、鈴鹿8時間耐久レースには85年から連続出場。90年に優勝を飾るまで、毎年様々なドラマを生み出し、8耐人気を決定づけた。