全日本トライアル選手権の最高峰クラスとなるIAスーパー。そこに参戦するライダーたちのこれまでのトライアル人生と、見据えているこれからをきく。第1回目は2017年、5連覇を目指す小川友幸選手。
2007年に最高峰クラスにて念願のチャンピオンを獲得、その3年後の2010年に再び王者奪還、そして2013〜2016年は4連覇を果たした小川友幸選手。だが彼には無冠の帝王、そんな風に言われていた長い低迷時代がある。
「自転車トライアルで世界チャンピオンを獲って、中学2年生のときにオートバイに転向しました。とにかく全部が全部トントン拍子に進み、17歳のときに全日本トライアル選手権で2位※1。当時を知る人たちは『オートバイに転向してから2〜3ヶ月ぐらいで全日本のトップクラスで張り合えるほどの急成長を見せた』と言います。そのときは伸びていく一方で挫折なんてまったくありませんでした」
トライアルを楽しんでいた父親の影響で、トライアルごっこを自転車で始めた小川選手。ただ、彼は幼少時からずっとサッカー少年で、将来はプロのサッカー選手になることを夢みていた。だからあくまで自転車トライアルは遊びの一環。トライアルでプロになりたいとも、なろうとも考えていなかった。しかし諸事情でサッカーを辞めることになり、方向転換。小学4〜5年生のときに初めて自転車トライアルの大会に出ると、そこでいきなり優勝をしてしまう。それを機に、黒山健一選手※2のお父さんに声をかけられ、黒山選手や藤波貴久選手※3たちと一緒に練習をするようになっていった。
「ブラック団※4の始まりですね。藤波選手とは父親同士が同じトライアルチームに所属していたので、幼い頃から遊んでいた仲。でも黒山選手のことはその時までまったく知らなかったんですよ。当時、黒山選手はすでに自転車トライアル界で有名だったので、圧倒的にうまかった。自転車トライアルは2歳ごとにクラスが分かれるので、黒山選手とも藤波選手とも同じクラスにはならない。だから自転車時代はライバルというよりは仲間でしたね。ただ、黒山選手に追いつきたい、黒山選手のようにうまくなりたい。そういう気持ちは強かったと思います。オートバイに転向後は、クラスが一緒なのでみんなライバルとなりましたし、ブラック団は勝つための集団ですから、世界で結果を残すためにとにかくがむしゃらに練習していました」
同年代が勝つことを目標に互いを刺激し合うという環境に加え、自転車時代からブラック団は海外へ遠征し、世界で戦い、世界のレベルを見た。だから小川選手にとって、自転車で世界チャンピオンを獲り、その後オートバイへ転向すること、オートバイでも世界を相手に戦うということは、自然の流れだった。
1993年、17歳のときに全日本トライアル選手権IAクラスに昇格。ルーキーながらランキング2位を獲得した。なお、このときのランキングトップはパスカル・クトゥリエ選手であったため、日本人としては頂点に立ったといえる
これまでに11度の全日本チャンピオンを獲得している日本のトップトライアルライダーの一人。全日本において小川選手の最大のライバル
小川選手の幼なじみでもあり、04年に世界チャンピオンに輝く。2016年は世界ランキング3位、トライアル世界選手権にフル参戦している唯一の日本人ライダー
世界チャンピンを育成するために、黒山健一選手の父・一郎氏が結成したトライアルチーム。ブラック団出身のライダーたちの多くは、現在も日本・世界で活躍している
「自転車トライアルで海外へ行っていたとき、オートバイトライアルの世界選手権を観る機会が何度もありました。ヨーロッパもだいたい自転車からオートバイに転向するというのが常。だから自分もそういう風になるのだろうなと…。プロになりたいというよりは、プロになるのが当たり前。それ以外の将来は、そのとき考えていなかったと思います。
それで17歳で全日本2位を獲り、準備を整えて1年後の95年に世界選手権へとフル参戦することになりました。全日本の走りを見ていた人たちからは『小川なら世界へ行っても活躍できるだろう』と言われていましたし、そのときまで僕自身も結果を残せる。そう信じて疑いませんでした。でもいざ扉を開けてみたらまったくダメ。練習ではトップライダーたちに負けてはいないのに、大会になると上位に入るどころか、ポイントさえ取ることができなかった。目の前に大きな壁ができた感覚でしたね…。
当時、僕はトリッキーなセクションが得意でした。対して世界選手権は自然の地形を活かしたような滑るセクションが多かったのです。それまで自分では苦手意識はなかったのですが、走ると結果を残せない。そこで初めて自分がそういったセクションが苦手なのだとわかりました。それからは挫折というよりか、焦りと不安、その気持ちがとても大きくなっていきましたね…。世界選手権でチャンピオンを獲るためにやってきたのに、そのスタートラインにさえ立てない。そんな状態がずっと続きました」
当時は今のように誰かが教えてくれる、誰かに指摘してもらうという時代ではなく、自分でどうにかしなければならなかった。小川選手はビデオに録画された自分のライディングや、トップライダーたちの走りを何百回と観て「今のままの走り方では通用しない」とライディングフォームの改造も行なった。しかし「ライディングを変えれば世界でも通用すると確信がありましたが、必死に試行錯誤しても1年でどうこうできるものではなかった」という。そしてもう一つ、本人の性格にも問題があったと言える。小川選手には人を蹴落としてまで勝ちたいという強い気持ちがなかった。加えていつもどこか一歩引いて物事を見て、感情をコントロールしてしまう。悪いことではないが、試合ではそれらがマイナスにしか作用しなかった。
「それと日本にいたときは、練習と試合だけに集中できる環境でしたが、海外ではそうはいきません。試合のときなどは会社員の父が休みを取って帯同してくれましたけれど、限界がありますから自分のことはできるだけ自分でやらなければいけない。買い出し、食事の支度、洗濯…。そういう生活を送っていたので、たとえば試合の空き時間に『あぁ今日も帰ったら洗濯をしなきゃ』というのが頭によぎる。そういうことが浮かんでしまう時点で集中できていないわけですよね…。今振り返ってみると洗濯なんて毎日しなくてもよかったし、もっと物事をラクに考えればよかったと思えるのですが、当時はそういう気持ちになる余裕もなかったんでしょうね。
1年目、最終戦を前に『ポイントが取れなかったら世界選手権への参戦はやめよう』と考えました。そうして臨んだ最終戦ではポイントが取れた。それで2年目も世界で戦ったのですが、泣かず飛ばず…。1年目ランキング18位、2年目15位。3つしかランキングが上がらなかったですし、同じ世界選手権に参戦していた黒山選手は2年目でランキング4位になっていた。乗り方、性格なども含め『あぁ、自分は世界に向いていないんだ…』。そう思いました」
世界選手権参戦2年目のシーズン終了後、再び世界へ挑むのか、それとも全日本へと戻るのか。小川選手が選んだのは全日本だった。だが、そこから小川選手はリセットするどころか、世界選手権を引きずるように全日本でも停滞していく。
「2年間世界で戦って、思うような成績は出せなかったですし、かかる費用もだいたいわかってくる。これ以上、親に迷惑をかけられない。だから未練はありましたけれど、世界選手権へのフル参戦は終わりにしました。ただ、17歳のときに実質的に日本一になり、一番の目標だった世界チャンピオンの道はもう可能性が少ない。その状況のなか、一体何を目標に全日本を戦えばいいのかわからなかったのです。そこからずっとくすぶり続けていきました。
それでたとえば、その後も全日本でまったく成績が出せなかったり、100%の力を出してもこの人には勝てない。そういうライバルがいたら引退していたでしょうね。でも試合に出れば2位、3位と上位に入る。100%の力を出せばチャンピオンを獲れるだろうという気持ちがどこかにあったし、結果は出るからなんとなくやるという感覚だったのかもしれません。だから毎回毎回思っていましたよ、『こんな状態ならトライアルを辞めて就職しよう』と。家族を養わなければいけませんし、就職するにも20代のうちがいいだろうと…。でもね、やっぱり踏ん切りがつかない。勝ちたいという気持ちはありますし、ありがたいことに走れる環境があり、各メーカーさんからのお誘いもあった。だからトレーニング方法を変えたり、自分でさんざん調べてメンタルトレーニングもしました。とにかく勝つために色々と試してみましたが、それでも勝てない。
あと、性格だから仕方がないかもしれないけれど、全日本でもやっぱり一歩引いてしまうのですよね。『周りなんか気にせず、なにがなんでも勝ってやる』という、がむしゃらさが足りなかったんでしょうね…。すべてに半信半疑という気持ちも持っていたのもいけなかったのかもしれません。自分がやっていることが本当に合っているのか、ジムに行ってトレーナーの人に付いてもらうこともありましたが、本当にそのやり方で合っているのかとか…。
結果が出ない当時、周りからは『うまいけれど、勝てないよね』『なんで勝てないの?』と言われ続けました…。そう言われて当然だなと思っていましたし、自分はずっと2番止まりなのだろう、勝てないライダーなのだ、そう考えるようになっていました」
そのまま勝てないライダーだと思い込み、停滞時期が続いていたら、小川選手は無冠のまま早々に一線を退き、現在の全日本にその姿はなかっただろう。だが05年、ある人との出会いが小川選手に転機をもたらし、気持ちを大きく切り替えさせた。
「05年、もしかしたら06年だったかもしれないですが、ホンダの担当者が変わったんです。その方は僕が負けたときに『どうしたら勝てるかな? 僕たちは何をすればいい?』と問いかけてきた。そういう言い方をされたのは初めてでしたね。とにかくそれまで以上に、僕が勝つためにあらゆることをしてくれた。『ここに問題がある? そうか、それならこうしよう』。『メンタルが不安? それならメンタルトレーニングを受けに行こう』。そういう方でした。だからとても期待されているというのを実感するとともに『ここまでしてもらって、これは何がなんでも勝たなければいけない、勝たなきゃダメだ』。心底そう思ったんです。それとたとえばメンタルトレーニングを受けたとき、『自分のやってきたことは間違っていなかった』という確信が持てた。そういったことも気持ちにいい影響を与えてくれたのだと思います」
そして07年。自信と確信を持ち、期待を背負った小川選手は、最大のライバルである黒山選手に12ポイント差をつけ、ついに悲願の王者に輝いた。その後、09年にリーマンショックなどの影響で全日本に参戦する体制がなかなか整わず、「チームにはもちろん、友人や知人に金銭的なサポートをお願いしに行きました」ということもあったが、2010年再び王者へと返り咲く。このとき小川選手が駆ったマシンは、多少の手を入れてはいたがほぼ市販車。本人いわく「あの2010年の勝利は奇跡といっていいほどの結果」だった。
「ここ数年でトライアルに興味を持っていただいた方には、4連覇だとか、6度目のチャンピオンという活躍している印象が強いかもしれませんが、そこに至るまでは本当に長い低迷時代でした。だけど、そのなかでも続けて来られたのは自分を信じて応援してくれるたくさんのファン、献身的にサポートしてくれる人がいたおかげでもあると思います。とても感謝しています。ありがとうございます。
今年狙うのはもちろん5連覇。10月で41歳となりますが、トライアルでの体力や技術は落ちるどころかまだまだ成長できるという印象です。黒山選手がニューマシンとなり、勢いを増すとは思いますが、自分のマシンと状態もいいので負けません。だからぜひ会場に足を運んで、応援してください!!」
全日本トライアル選手権の最高峰クラスはもう長い間、小川選手と黒山選手の2人が常にチャンピオン争いをしている。残念ながら、なかなか彼らを打ち負かすライダーが出てこないのが現状だ。
「次世代といわれる小川毅士選手や柴田 暁選手などは、僕と黒山選手の2人より得意な分野があって、いつ勝ってもおかしくはないと思います。だけどトータルの力で考えてみると、まだ差があるのだと思います。多分、戦える体制が整っていて、僕たちのメンタルが続くのであれば、今、スーパークラスにいるライダーでも僕らに勝てるチャンスはないと思います。それは技量だけのことではなく、練習の仕方、体制など、いろいろなことを考慮してのことです。仕事をしながらレースをしているライダーが大半ですから、なかなかトライアルだけに集中する環境を作るのは難しいですし…。
だからこそ今はまだ引退することは考えていません。以前は毎日のように引退の文字が頭にありましたけれどね…。それに辞めるのは簡単だと思うんです。きっと僕や黒山選手が引退しますとなっても『まだまだこれからだよ』ではなく『長い間お疲れ様』ってなるでしょ。いわばいつでも辞められる。そしてもし引退して、他のライダーがチャンピオンを獲りましたとなっても、日本のトライアルのレベルが上がっていくかといったら、そうは思えない。もしかしたら落ちてしまうかもしれない。だからこそやれるところまでやって、僕らに追い付けるライダーが出てくるのを待つか、もしくはそういったライダーを育成していかないといけないと思っています。
何年も前から考えているのは、選手兼監督をしてみたいということ。自分の持っている技術を伝えながら勝つ集団を作って、職業として成り立たせられるシステムを作りたいと考えています。おこがましいかもしれませんが、そういったことをやっていかなければいけないし、それが日本のトライアル界のさらなるレベルアップにつながっていくのではないかと思っています。現時点は、たとえばチームの後輩たちに、僕の技術を伝えるためのキッカケ
を出しています。1から10まで全部教えたところで、本人のためにもならないし、上達はしない。それは僕も経験してきたからわかる。だからキッカケにとどめています。そのキッカケをどうするのかで、成長できるかできないかの差が出てくると思います。
そして、僕はチーム員に限らず、望まれるのなら一緒に練習をしますよ。勝つため、うまくなるためには技術が上の選手と一緒に練習するのは大事。なかなか敷居が高く、遠慮してしまうかもしれないけれど、本当に勝ちたい、うまくなりたいと思うなら遠慮している場合ではないでしょ。一緒に練習して技術を見て、それを習得してほしい。そして僕や黒山選手を打ち負かしてほしい。ただ僕は、負けたくないという気持ちがまだまだ強いので手ごわいですけれどね」
長い低迷時期を経て、花開いた小川選手は今年、5連覇、7度目のチャンピオン獲得を狙う。2017年の全日本トライアル選手権は3月12日(日)に茨城県・真壁トライアルランドで開幕する。
全日本トライアル選手権の最高峰クラス、IAスーパーにフル参戦中。2016年に4連覇を果たし、2017年は5連覇を狙う。ニックネームは、ブラック団時代に黒山選手が「学校の友達の小川くんはおがわっち
と呼ばれている」という発言からガッチ
。1976年10月4日生まれ。三重県出身
参戦レース | クラス | 成績 | |
---|---|---|---|
1989年 | 自転車トライアル | ─ | 世界ランキング5位 |
1990年 | 自転車トライアル | ─ | 世界チャンピオン |
1991年 | バイクトライアルに転向 | 国内B級 | チャンピオン |
国内A級 | チャンピオン | ||
1992年 | 全日本トライアル選手権 | 国際B級 | チャンピオン |
1993年 | 全日本トライアル選手権 | 国際A級 | ランキング 2位 |
1994年 | 全日本トライアル選手権 | 国際A級 | ランキング 4位 |
1995年 | トライアル世界選手権 | ─ | ランキング 18位 |
全日本トライアル選手権 | 国際A級 | ランキング 8位 | |
1996年 | トライアル世界選手権 | ─ | ランキング 15位 |
全日本トライアル選手権 | 国際A級 | ランキング 5位 | |
1997年 | 全日本トライアル選手権 | 国際A級スーパー | ランキング 2位 |
1998年 | 全日本トライアル選手権 | 国際A級スーパー | ランキング 3位 |
1999年 | 全日本トライアル選手権 | 国際A級スーパー | ランキング 2位 |
2000年 | 全日本トライアル選手権 | 国際A級スーパー | ランキング 3位 |
2001年 | 全日本トライアル選手権 | 国際A級スーパー | ランキング 3位 |
2002年 | 全日本トライアル選手権 | 国際A級スーパー | ランキング 2位 |
2003年 | 全日本トライアル選手権 | 国際A級スーパー | ランキング 2位 |
2004年 | 全日本トライアル選手権 | 国際A級スーパー | ランキング 2位 |
2005年 | 全日本トライアル選手権 | 国際A級スーパー | ランキング 3位 |
2006年 | 全日本トライアル選手権 | 国際A級スーパー | ランキング 2位 |
2007年 | 全日本トライアル選手権 | 国際A級スーパー | チャンピオン |
2008年 | 全日本トライアル選手権 | 国際A級スーパー | ランキング 2位 |
2009年 | 全日本トライアル選手権 | 国際A級スーパー | ランキング 2位 |
2010年 | 全日本トライアル選手権 | 国際A級スーパー | チャンピオン |
2011年 | 全日本トライアル選手権 | 国際A級スーパー | ランキング 2位 |
2012年 | 全日本トライアル選手権 | 国際A級スーパー | ランキング 2位 |
2013年 | 全日本トライアル選手権 | 国際A級スーパー | チャンピオン |
2014年 | 全日本トライアル選手権 | 国際A級スーパー | チャンピオン |
2015年 | 全日本トライアル選手権 | 国際A級スーパー | チャンピオン |
2016年 | 全日本トライアル選手権 | 国際A級スーパー | チャンピオン |